平和な日本に産まれたということ
きっかけ
最近『強運の法則』という本を読み、「第10章 【第八法則】理想の死」に突如出てきた特攻隊員の遺書の話に衝撃を受けた。
その本によると、
いよいよ死を前にし、もう後は生きなくてもよいと思うことで、
(中略)
「人との繋がり」を求め、理屈でも建前でもなく、本気で他人に喜びを与えたいと欲するようになる
とのことで、その例として(「死ぬことを勧めているのでも戦争賛美でもない」と前置きしつつ)、特攻隊の遺書が他者への感謝や心配に溢れていることを引き合いに出された。
例えば紹介された遺書は、
母上様、お達者でお暮らしのことと存じ上げます。
28年間の人生は、夢のようでした。
そして、28年間の母上様のご苦心、ご辛抱を肝に銘じております。
されば、今日この日も勇んでいきます。
そして、綾子のことは、母上様、くれぐれもよろしくお願いします※綾子さんは恐らく奥様のこと
など3つの遺書が紹介されている。
調べてみると、知覧特攻平和会館に、一日では読みきれない程の沢山の遺書が展示されているらしい。
思い立ったが吉日、次の週末9月5日、早速知覧に行ってみることにした。
涙無くしては見られない悲しい事実があった
知覧特攻平和会館|観光スポット|鹿児島県観光サイト/かごしまの旅
いざ知覧特攻平和会館に言ってみると、嗚咽を抑えられない程に涙が止まらなかった。
涙で目がぼやけて、手紙を読めない時もあった。
衝撃的でハッとさせられるものについては、写真を撮るつもりだったが、中は撮影禁止で、遺書や手紙を写真におさめることはできなかった。
ただ、「これはしっかり反芻しなければならない」と痛感した。
そのため、可能な限りメモを取り、会館で販売されていた『ホタル帰る』を購入した。
帰り道のバスと飛行機でその本を読みながら帰った。
そこでも悲痛なエピソードと、数多くの特攻隊員の第二の母となったトメさんの美しい心と行動に泣いた。
人生で経験したこと無いくらい、人前なのに読書によって泣かされた。
このブログでは、僕が知覧特攻平和会館と本(その後も二冊『只一筋に征く』『いつまでも、いつまでもお元気で』を購入して読んだ)で学んだことを元に、いくつかデータや遺書、エピソードを紹介し、最後に大変僭越ながら、平和に生きる上で大切な考えについても最後に整理した。
戦争に関心の薄かった僕のような人が、戦争の歴史を調べたり、平和について考えるきっかけになれば良いな、という思いから書く。
なるべく事実の通り書いたつもりですが、事実と異なる点がもしあればご指摘下さい。
施設の構造
以下補足 ※9月5日時点の体験談です
- 壁一面に特攻隊員の写真と遺書等が展示されている遺品室内は撮影NG
- 視聴覚室で講義やVTR放映
- Eにはなでしこ隊(特攻隊員のお世話をした女学生)のインタビュー
- ④では後述する鳥浜トメさんのVTRを含む、残された方々の思い出が放映される
- コロナ期間中はガイドレシーバー貸し出しNG
- 講話室もしまっていた
特攻隊に関するデータ
- 参加人数:1,036名(うち439名が知覧の基地から飛び立った)
- 年齢:17歳〜32歳
- 平均年齢:21.6歳
- 少年飛行兵になるための倍率:40倍から50倍
- 時期:終戦時の1945年は今から76年前
特攻作戦に至る経緯
- 1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃
- シンガポール・オーストラリア・フィリピン出撃、破竹の勢いで領土を拡大
- 1942年6月5日、ミッドウェー海戦で連合軍に敗走。連合軍の逆襲が加速する。
この頃、日本本土への空襲が激化する(1942年4月18日~1945年8月18日) - 1944年10月20日マニラにて、「神風特別攻撃隊」が編成され、大きな戦果をあげることになり、その戦果が特攻隊を定石化していく
※自発的な「個人特攻」はそれまでも行われていたが、ここからは組織的な「全軍特攻」へとシフトしていった - 1945年3月26日、連合軍が沖縄県慶良間諸島に上陸
- 同日、最後の手段として天一号作戦が発令される。史上前例の無い大規模な体当たり特攻作戦が行われることとなった。
※日本への輸出制限や多数の犠牲者によって通常攻撃で米軍に打撃を与えることは既に不可能となっていた
遺書紹介
育ての母へ
相花信夫少尉は5月4日、18歳にて戦死された。
彼は4歳で実母を亡くしており、6歳から継母に育てられる。
8歳上の兄はすぐに馴染んだが、相花少尉はなかなかすぐには親しめなかった。
出撃前、継母に向かっての手紙
母を慕ひて
母上お元気ですか。長い間本当に有難うございました。我六歳の時より育て下さりし母。継母とは言へ此の種の女にある如き不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育て下さりし母。有難い母。尊い母。
俺は幸福だった。遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺は。幾度か思い立って呼ばんとしたが、なんと意志薄弱な俺だっただろう。母上お許しください。さぞ寂しかったでしょう。今こそ大声で呼ばせて頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと。
『いつまでも、いつまでもお元気で』より
婚約者へ「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない」
「神聖な防止や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーのように、いつも離れられない存在になりたい」という婚約者の一途な思いに答え、白い飛行マフラーの下に、婚約者から贈られたマフラーを巻いて、にっこり笑って出撃した。
当時23歳の穴澤 利夫さんから、婚約者への手紙。
二人で力を合わせて努めて来たが,終に実を結ばずに終った。
(中略)
あなたの御両親様、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並のお礼の言葉では済みきれぬけれど「ありがたふ御座いました」と,最後の純一なる心底から言って置きます。
今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどり度くない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませて呉れることと信ずる。然し,それとは別個に婚約をしてあった男性として、散って行く男子として、女性であるあなたに少し言って征き度い。
「あなたの幸せを希ふ(ねがう)以外に何物もない。
徒に過去の小義に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない
勇気を持って,過去を忘れ,将来に新活面を見出すこと」
あなたは,今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には,もう存在しない」(中略)
今更何を言ふか,と自分でも考へるが,ちょっぴり慾を言って見たい。
(中略)
「智恵子 会ひ度い、話し度い、無性に。
今後は明るく朗らかに。自分も負けずに、朗らかに笑って征く。」利夫
智恵子様
千鶴子ちゃんへ
安原正文大尉が妹のように可愛がっていた千鶴子ちゃんへ送った手紙を知覧特攻平和会館で閲覧。
たくさん貰ったお手紙はみな、ポケットに入れて持っていきます。
御守袋(御人形の寝ている)も忘れず連れて行きます。
コリントももう出来なくなりましたが、これからは兄ちゃんは御星様の仲間に入って千鶴ちゃんが立派になるのを見守っています。
泣いたりなどしないで朗らかに笑って兄ちゃんが手柄を立てるのを祈って下さい。
御父さんや御母さんの言い付けを守って立派な人になって下さい。
さよなら
三月二五日
正文
千鶴子ちゃんへ
会場では、もう一通の手紙と人形が添えられていた
御人形よ 風鈴よ 鶴よ はるばる遠くの島まで来て呉れて、毎日みんなを慰めて呉れたね、ありがとう 御礼を云ひます。
誰も居なくなったら 花蓮港のお母さんの処へ帰って 何時迄でも可愛がって貰ひなさい さよなら
まるで贈られた人形が千鶴子ちゃんのように思えてきて、実際には連れて行けず、お母さんの処に送り返したことを推測される並びだった。
エピソード紹介
「おまえたちだけを死なせはしない。」教官と家族の決意
藤井一中尉は、戦争が始まった頃、少年飛行兵の教官に就任した。
自身も厳しく律していた彼は、かつての教え子たちの戦死を聞くにつれ、「おまえたちだけを死なせるわけにはいかん」が口癖になり、自ら特攻兵を志願した。
だが、藤井中尉は年齢的にも若くなく、妻と二人の子供がいた。
このように年長で、面倒を見なければいけない家族が多い将校の場合は、特攻には採用されない原則で、当然のことながら。藤井中尉の志願は却下される。
しかし、「教え子が死んでいくのに自分だけがおめおめと生きているわけにはいかない」という彼の信念は変わらなかった。
妻は最初は反対していたが、次第に夫の固い覚悟に押し切られるかたちになった。
それ以降も志願と却下が繰り返され、ついに血書をして願書を提出した。
夫の決意の固さを知った妻は、後顧の憂いを絶つために、近くを流れる荒川に、二人の子を道連れにし投身自殺した。
「自分たちが生きていると心残りとなるでしょうから、お先に行って待っています。」という遺書が残されていた。
藤井中尉の志願はついに受理され、5月28日に戦死。
『只一筋に征く』より
「おれだけが家族に会うわけにはいかない」
日頃から公私をはっきりと区別していた伊舎堂用久大尉は、妹が手作りのご馳走を持って時折面会に訪れても会おうとはしなかった。
飛行団長の柳本大佐の勧めにも
「部下は他府県の出身者がほとんどで、帰ろうと思っても帰る所もない。いくら肉親でも、部下の手前、忍びがたい」と、最後まで面会を断り通したという。
こうして家族との接触をかたくなに慎んできた伊舎堂大尉だったが、出撃の日が近づいた三月には、日頃お世話になった島の先輩や知人を訪ね、身の回り品を形見として贈ったりし、惜別の意を伝えるようになった。
3月26日伊舎堂体隊長率いる誠第十七飛行隊は石垣基地を出撃。
伊舎堂大尉の出撃を知らずにいた両親は、この日、大尉の姉と妹が料理した心づくしの慰問品を持参して基地に赴いたが、役場まで来た所で、「今明け方出撃、特攻戦死」を知らされた。
この報を聞いて愕然とした母親は取り乱すまいと必死にこらえていたが、こらえきれずに泣き崩れ、周りの人の涙を誘ったという。
『只一筋に征く』より
以上いくつかのエピソードを紹介してきたが、この人は生きる観音様だ・・・と思わせる方がいらっしゃったので、その方についてはこの後厚く記述する。
富屋食堂の鳥浜トメ
以下本エピソードについては『ホタル帰る』より要約・引用
知覧のオアシス
日々血も滲むような訓練を行う知覧の少年飛行兵にとって、日曜日ごとに許される「面会」と「外出」は貴重な娯楽だった。
しかし、全国から集められた隊員には面会で訪れる家族がいないものも少なくなく、外出がほとんどの隊員に取っては唯一の娯楽だった。
中でも、どういうこともない田舎町の知覧においては、富屋という食堂がオアシスになった。
その食堂を切り盛りしていたのが鳥浜トメであり、その娘とライターの石井さんによって書かれた本が前述した「ホタル帰る」である。
富屋旅館の物語|鳥濱トメが残した 気づきの宿 富屋旅館【公式サイト】より(富屋食堂は富屋旅館に変わる)
特攻隊員の母
やがて戦況の悪化に伴い、富屋に特攻隊員達が訪れることとになる。
親と離れて暮らす特攻隊員にとって、トメは実の母親のようであり、トメさんも実の子供のように可愛がった。
実際には食堂といえども、お風呂に入ったり、二階でトランプに興じたり、家族に手紙を書いたり(兵舎から送ると憲兵隊によって中が見られてしまうため、書きたいことが書けなかった)、歌を歌ったり酒を飲んだりする憩いのスペースだった。
トメは食事に留まらず、隊員達が欲しがることを全力で尽くすのだった。
特に出撃の前には何でも食べたいものを食べさせてあげたいという気持ちから、当時珍しいおはぎやエビやしいたけなど、配給では手に入らない食材も仕入れることになった。
そのため、お店が大盛況だったにも関わらず、過去食堂を営みながらせっせと集めた着物や家財を売ってしまい、家計は火の車という実情だった。
そうなりながらも、愛を尽くして沢山の特攻隊員の出撃を見守るのだった。
アメリカ兵の母
終戦を告げる玉音放送を聞きながら、「こんな形で終わるなら、あの子たちは一体なんのために死んだんだ」と一層の悲壮感に苛まれた。
そして、当時の警察署長から信じられないことを告げられる。
つい先ごろまで特攻兵たちが出入りし、くつろいで楽しい時を過ごしたように、米兵が来たら、富屋に自由に出入りさせて、楽しい時を過ごさせてやってくれというのだ。
息子のように可愛がり、散っていった特攻兵達が「おばちゃん」と言う声が毎日聞こえ、彼らの無念を思って泣く日々に、「どうしてそんな掌がえしができるのか」、とトメさんは即座に断った。
娯楽施設がなければ荒くれ者達である米兵はそこらじゅうで発散し、女を襲ったりピストルを打ったりするかもしれないから、と署長に無理やり引き下げられても、トメは固辞するのだった。
しかし、町をあげて歓迎会を行うことになり、富屋が料理とビールを手配することになってしまう、そこからずるずると米兵の相手をせざる得ない生活が始まっていく。
そして結果的にはなんと、英語も分からないにも関わらず、米兵からも「マーマ」と呼ばれる程慕われてしまうのだった。
周囲の人々からは当然「よくもあんなに掌を返せるな。」と非難轟々。
実の娘にも泣かんばかりに追い出してくれと直談判される。
その時、娘に以下のように言ったそうだ。トメの性格がよくわかる。
「母さんだってアメリカ兵から慕われるようになるっとは思っていなかったよ。なりたくもなかったよ。でもね、礼子、あの人たちを見たかい。みんなポケットに両親や兄弟やら恋人やらの写真を入れているだろう。みんな自分の家族を離れて、地球の裏側の見たこともない土地に来てしまってねえ。淋しいんだよ。早く帰りたいんだよ。来たくて来たんじゃないからねえ。お国にのために、しかたなく来てるんだよ。そういう気持ちが分かるとねえ、せめてこの家にいるときくらい、やさしくしてやらないとかわいそうだと思えてくるの。
(中略)
日本人は敵だったんだからねえ。あの人たちは敵に囲まれているんだよ。かわいそうじゃないか。
(中略)
母さんだってわるく言われているのは知っているよ。でも母さんはけっしてわるいことをしているわけではないからねえ・・・。しかたがないんだよ、母さんは気の毒な人を見ると、助けてあげたくなってしまうんだよ。」
そして約二ヶ月知覧に滞在した米軍は鹿児島市の本隊に合流することになり、お別れとなった。
しかし、思いがけないことになる。
それは、鹿児島に行ったはずの米兵達が非番になると入れ替わりたちかわり、富屋までやってきたのだ。
トメはアメリカ兵の母にもなっていた。
そして、トメが米兵の相手を始めざる得なかった頃、知覧飛行場に、ひっそりと・簡易的な特攻隊員達のお墓を作り、二人の娘と毎日お墓参りを行い始める。
お花をいけて、実の子どもたちのように可愛がった特攻隊員達に語りかけ、そのままお花を回収する。
何故なら、当時は戦時中の日本の嘘や闇が暴かれ、既に特攻隊を称える人などおらず、特攻隊員のお墓参りをしていると知れれば、「軍国主義者」のレッテルをはられて、弾劾されてしまうからである。
ただでさえ「特攻隊で儲けた富屋」と言われているのだ。
それでも、お国のために尊い命を犠牲にしてきた、誰からも弔われることのない息子達のために、日々秘密裏にお墓参りをするのだった。
逆風の遠のく日を信じて、辛抱した。
人類の母
"戦後"が音を立てて"民主主義"へと向かっていった。
そんな激動の時代の中、トメは大慈大悲ぶりを発揮し、多くの人を救った。
トメの孫いわく、
「物心ついたときには、あまりにも大勢の人が富屋で暮らしていたので、度の人がほんとうに自分の家族なのかよくわからなかった」
ということだった。
- 内村旅館に"お勤め"に出ていた(米兵の夜の相手をするために警察が手配していた)女性のうちの一人の女性とその女性と米兵の間にできた子供(米兵の子供を産んだ女として女性は世間の袋叩きにあっていたし、当時珍しいハーフの子供も当然いじめられることになった)
※この母親は親子で面倒になる心苦しさに耐えかね、福岡に働きに出る。そこで結婚し一女をもうける。しかしまもなく離婚し、また娘と戻ってくることになる。 - 故郷の違う夫に捨てられ、親に勘当された母と子
- 終戦後亡くなった床屋の息子二人とその母
- トメの娘の結婚式の結婚祝いを盗んだ窃盗犯
というように、トメはいろんな方を家族として家に置いてしまった。
かわいそうな境遇の人を見ると無条件で救いの手を差し伸べた。
また、まだ富屋に(特攻兵ではなく)少年飛行兵が来ていた頃、トメは留置場弁当を引き受けている。
安い値段で引き受けたにも関わらず、自分の子供の弁当のように心のこもったものを作り、二段重ねの塗りの器に入れて実の子供たちに届けさせたのだった。
そして、それを終生続けた。
トメによれば、生まれつきの悪人というのはいないのである。
悪いことをしたというのは、困ったことがあってそうせざる得ないような状況に追いこまれてしまったからであって、そんな事情さえなければ、誰でも悪いことなんかしたくないんだからね、と子供たちは言い聞かされて育った。
観音像建立
1950年、神武景気が始まった頃、特攻隊への逆風が静まってきた。
トメは棒を立てただけの簡易的なお墓参りを続けながら、町長に慰霊塔がわりの観音像を建てる提案をするようになった。
この頃にはトメは個人のお金で観音像を建てるのは簡単なことになっていた。
しかし、私的に行うのではなく、お国のために我が身を犠牲にした人たちの魂を慰める行為は公に行われなければならないという責任感を抱いていた。
その後、トメの努力は実り、役場をあげて観音像を建立することになる。
それから協力者があらわれ、特攻平和会館の設立に繋がっていった。
そして、特攻平和会館公開後、89歳でこの世を去った。
敬天愛人
以上、三つの遺書と、二つのエピソード、『ホタル帰る』の要約を紹介した。
他にも数え切れない遺書や手紙、エピソードがあるため、少しでも興味を持った方は知覧に行くか、紹介した本を読むと良いと思う。
話は少しそれるが、僕が鹿児島に向かう途中、鹿児島といえば・・・、という気持ちで西郷隆盛の南洲翁遺訓を読んだ。
西郷隆盛は敬天愛人(天を敬い、人を愛す)という言葉に強い思いを持っており、
「我を愛する心を以て人を愛する也」
つまり、「誰しも自分を愛するように、人を愛せ」とも言っている。
また、僕が尊敬している経営者の稲盛和夫さん(京セラの創業者)も『生き方』等の著書や稲盛ライブラリー | 京セラ株式会社を通じて、敬天愛人の精神・利他の心が成功の鍵だと言っている。
西郷隆盛も稲盛さんも、敬天愛人の精神で様々な事業や教育を行ってきた。
(例えば稲盛さんは、京セラ創業、KDDIの立ち上げ、JALの再生、盛和塾で沢山の経営者の支援、ノーベル賞と並ぶ国際賞である京都賞の設立など、沢山の素晴らしい功績を残している)
↑ 稲盛ライブラリーツアーでもらったカード(常に財布にいれてます笑)
僕は、まさにこの精神をトメさんのストーリーにも感じた。
トメさんは実は、自身が死にかけた経験から、自分の命は人のために生かされたのだ、と天命を自覚するようになった。
まさに天を敬い、人を愛した。
平和の日本に産まれたということ
僕にとって今回の知覧一人旅は、人生で初めて、ちゃんと戦争に触れる機会になった。
また、1945年に終戦してから、まだ76年しか経っていないことに驚いた。
祖父母の世代に僕たちが生まれていれば、自分も特攻隊員として散華していたかもしれないと考えると、なんとも言えずに泣きそうになる。
そしてこのブログを公開する9月11日は、世界同時多発テロが起きた日だ。
2001年、ちょうど20年前である。
戦時中に比べれば、平和になったと言って良いと思う。
しかし、アメリカでは20年前には凄惨なテロがあり、世界を見渡せば今だに紛争や戦争が起きている。
また、コロナやインターネットの興隆をきっかけに、日本でもちょっとした論争が日常茶飯事になった。
果たして平和の時代に産まれたと手放しに言っていいのだろうか、と思う程に本当に悲しい現実もある。
身近なことで言えば、
- 仕事で意見が食い違って喧嘩っぽくなる
- 友達と価値観が合わず、言い争う
- お金が返って来ない
- 嫌なことを裏で言われた
- ネットでアンチコメントを書かれた
いろんな対人トラブルもある。
でもそんな時こそ、罪を憎んで人を憎まずで生きていきたいと思う。
もっと言えば、敬天愛人の精神で、人を愛したい。
トメさんの言うように、「悪いことをしたというのは、困ったことがあってそうせざる得ないような状況に追いこまれてしまったから」だからだ。
自分と価値観が合わないことや喧嘩をしたとしても、それはそれぞれの仕事上の立場や環境がそうさせただけで、人を嫌いになる理由にはならないのである。
僕は、せっかく戦争の無い日本に産まれたのだから、改めて平和を考え、先人たちが血肉の上に築いた戦争の無い日本を少しでも長く保ちたい。
今はなんの力も無いけど、きっと必要な力を手に入れて、自分の利益のためではなく、世のため人のために捧げることで、世界平和に貢献したい。
それが天命だと考えている。
何をそんな大それたことを、と自分でも思う。
でも、敬天愛人、どんな時でも、天を敬い、人を愛すことはできると信じているし、まずはそこからで良いと自分を許したい。
皆さんの天命はなんですか??
以上で今回のブログは終わりです。
長々とお読み頂きありがとうございました。